今日も茨木のり子さんの詩を紹介しますね。
「マザー・テレサの瞳」
マザー・テレサの瞳は
時に
猛禽類のように鋭く怖いようだった
マザー・テレサの瞳は
時に
やさしさの極北をしめしてもいた
・・・
マザー・テレサの瞳は
クリスチャンでもない私のどこかに棲みついて
じっとこちらを凝視したり
またたいたりしていて
中途半端なやさしさを襲ってくる!
・・・
たった二枚のサリーを洗いつつ
取っかえ引っかえ着て
顔には深い皺を刻み
背丈は縮んでしまったけれど
八十六歳の老女はまたなく美しかった
二十世紀の逆説を生き抜いた生涯
外科手術の必要な者に
ただ包帯を巻いて歩いただけと批判する人は
知らないのだ
瀕死の病人をひたすら撫でさするだけの
慰藉の意味を
死にゆくひとのかたわらにただ寄り添って
手を握りつづけることの意味を
――言葉が多すぎます
といって一九九七年
その人は去った
「もっと強く」
もっと強く願っていいのだ
わたしたちは明石の鯛がたべたいと
もっと強く願っていいのだ
わたしたちは幾種類ものジャムが
いつも食卓にあるようにと
もっと強く願っていいのだ
わたしたちは朝日の射すあかるい台所が
ほしいと
すりきれた靴はあっさりとすて
キュッと鳴る新しい靴の感触を
もっとしばしば味いたいと
秋 旅に出たひとがあれば
ウインクで送ってやればいいのだ
なぜだろう
萎縮することが生活なのだと
おもいこんでしまった村と町
家々のひさしは上目づかいのまぶた
おーい 小さな時計屋さん
猫背をのばし あなたは叫んでいいのだ
今年もついに土用の鰻と会わなかったと
おーい 小さな釣り道具屋さん
あなたは叫んでいいのだ
俺はまだ伊勢の海もみていないと
女がほしければ奪うのもいいのだ
男がほしければ奪うのもいいのだ
ああ わたしたちが
もっともっと貪婪にならないかぎり
なにごとも始りはしないのだ